星空と、色えんぴつ

日々の小さな発見や、ちょっと面白いこと、楽しいこと。

内職になっていないビーズの話。

手芸はほとんどしませんけど、

ビーズの指輪やストラップなんか、たまに作ります。f:id:haruara18:20180915174002j:plain

自分がつけるためではなくて、

某所で、販売ブースの隅っこに

売り物として置いてもらっているので。

 

ビーズをテグスに通す時の感触がなんとなく好きなので、

たまに、ちょっと空いた時間に作りたくなるのですよね。

本当にたまなので、毎回作り方を忘れかけるのが

どうかと思いますけど^^;

 

 

……売れるかと言うと、稀に売れます。(笑)

 

売れると、思わず、また新たに何か作りたくなりますが、

新しいパーツや道具を用意しようとすると

売上なんて、すぐに材料費で飛んでしまう罠。

 

 

ビーズ自体は、家に沢山あるんです。

昔、手芸好きの妹が持っていたビーズを、

もう使わないからと譲ってもらったので。

 

でも……ほしい色をこの中から寄り分けるのが、大変なんだよ……。

(なぜお弁当箱に入っているのかも分かりませんが) 

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地味な単純作業は嫌いではないのですが、

ただでさえ、ビーズの指輪を作るのだって、

毎回忘れかけて、モタモタして時間がかかるのに、

その下準備としてビーズの色分けをしていたら、

一体コレ、時給何円の世界だろうって思ったりして。

 

だからと言って、ほしい色のビーズを手芸屋さんで買って来たら、

また材料費で売上が飛んじゃうんだってば。

 

 

……うん。やはり、これは内職というより、

ただの気分転換だと思った方が

現実的かもしれません(°∀°)

地元の図書館の進化に思うこと。

私は、よく図書館を利用しています。

今年度がはじまったあたりから、

本の貸し借りがセルフサービス化されました。

借りたい本は、タッチパネル操作で

自分で手続きして持って帰ることになっています。

返却の時は専用の返却口に本を入れます。

 

 

便利になった面もあって、

図書館のホームページから貸し出し延長の手続きが

できるようになりました。

地方に住んでいるから分からないけど、

今の時代、これが普通なのかしら……?

 

これまでは図書館に電話しないといけなかったので、

ホームページでクリックさえすればいい、というのは楽です。

私はよく、仕事の資料や勉強のために借りた本を

貸し出し延長してもらうので。

普通に「期日までに読み切れない」ということもありますし。

 

 

……でも、便利になった反面、

機械苦手な母が「そういう方式に変わったなら、

もう図書館には行かない」と言っているのは、

残念なことじゃないかなと思うのです。

 

母だけの問題ではなく、特に高齢者の方が、

図書館離れをすることにならないのかなと。

手続き自体は簡単でも、

タッチパネルの概念を分からない方もいるらしいですし。

もちろん、職員の方にお願いすれば、

何度でも教えてくれると思いますけれどね。

 

 

あと個人的に、カウンターで

職員の人と会話する機会がなくなったのも、

なにか寂しいような、味気ないような気がするんです。

会話とは言っても「お願いします」と

「ありがとうございました」ぐらいだけど、

感謝の言葉ぐらいは伝えて帰りたいのですよ。。。

 

昔、なにかの心理学の本で読んだのですが、

本の貸し借りの際、職員と偶然指が触れるだけで、

図書館全体が温かい場所に感じられる心理があるそうです。

そういう機会がなくなっちゃったなと。

 

セルフサービスだと人件費が削減できるとか

事情は色々あるのかもしれませんが。

これも時代の流れなのでしょうかねぇ。

キュウリが黄色くなるとは知らなかった。

母はよく、お庭にキュウリを植えます。

私はキュウリがあまり好きではないのですが、

夏になって、ウチで採れたキュウリは別格。

 

スーパーのキュウリと比べて、

収穫したばかりのキュウリは

しっかり味が感じられて美味しいです。

 

新鮮な野菜って味が全然違うんですね。

 

となりのトトロ」で、

サツキちゃんが畑で採れたばかりのキュウリを

美味しそうにかじってるシーンがあったけど。

アレ絶対美味しいだろうなって。

キュウリに対する認識が、ちょっと変わりました( ̄∀ ̄)

 

 

ところでこの夏の終わり、

もう採り尽くしたと思っていたキュウリが、

まだ葉陰に1本残っていたそうです。

 

収穫した時点で、すでに

キュウリにしては太い状態になっていました。

「胡瓜」と書くくらいだし、

やっぱり瓜の仲間なんだなと思うぐらいには。

 

母曰く、昔の時代は、キュウリを採る時

味よりも、食べる量の方が大事なので、

なるべく太くなるまで待っていたとのこと。

そして、中の種を取って食べていたそうです。

 

 

……その1本残ったキュウリは、

いつの間にか、こんな色になっていました。

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 流し台に置いてあったのを見て、

一瞬、バナナかと思っちゃったよ!

 

キュウリが黄色くなるなんて

寡聞にして知りませんでした。

 

中の種がどうなっているのか、断面図も気になりますが、

切ってしまうのも惜しいかも。

 

 

ちなみに、これも母に聞きましたが、

ゴーヤは最終的には赤くなるらしいです。

ときわ公園の熱帯植物園で

赤いゴーヤの味見をする機会があって、

食べてみたら甘みがあったとか。

 

苦くないなら、食べやすいかもなぁ。

(私はゴーヤも苦手^^;)

 

身近に思える野菜であっても、

意外に知らないことが多いものです。

使わない切手の活用方法(使用済編)

 使用済みの切手にも、

ボランティア団体へ寄付できるという意味で

活用方法が残っています。

 

自分の手元にある

ボランティア団体のチラシによると、

使用済み切手は東京に集められて、

ボランティアの方たちが整理・換金して、

発展途上国の医療のために使われるとか。

 

(日本の切手はデザインが綺麗なので

使用済みのものを集めている方たちもいると

聞いたことがあります)

 

 

まぁ、ペットボトルのふたを

寄付するようなものですよね。

捨てるよりも、人道的な支援に

役立ててもらった方が良いです。

 

 

……ただ、時代が時代なので、

切手の貼られた郵送物を受け取る機会も

あまりないのが難点。

自分の手元にも今、3枚しかなかったりして。

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 寄付する切手は、

周囲を5ミリぐらい残して

切り取っておくといいそうです。

 

郵便局のスタンプが押してある場合は

残しておいた方がいいと聞いたので、

こんな感じに切ってますが……。

 

切り方が悪い場合は、

整理するボランティアの方々が

直してくれるらしいです……。

大雑把な私は、ザクザク切っちゃってるから

多分お手数をかけていることでしょう……(すみません)

 

 

ところで画像の切手ですが、

浴衣型のものが可愛いです。

 

切手は送るのも楽しいですが、

変わった切手を受け取るのも

相手の心遣いを感じられて嬉しいもの。

 

そして、そこで終わりではなく、

もう一度どこかで役立ててもらえれば、

切手好きとして本望です。

使わない切手の活用方法(未使用編)

コレクターと言うほどではないものの、

可愛い切手が好きなので、必要以上に集めています。

 

その上、昔から細々と続けているボランティア活動があるので、

郵送料のためにと、ご寄付いただいたりして

余計に切手が増える一方です。嬉しいですけどね。

 

 

そこで、切手に関する豆知識……というほどでもないですが。

 

使わない切手って

郵便局の窓口に持って行くと、

いろいろ活用できます。

 

必要な金額の切手を集めて、少額の手数料を払えば、

レターパックにも交換できるのは

ちょっと意外でした。

 

お正月の残りの年賀はがきなど

未使用はがきでも、

切手やレターパックへの交換が可能です。

色々とルールがあるようで、

何でも交換できるわけではありませんが……。

 

こういうところで地味にケチケチと経費節約するのも

ボランティア活動のうちだと思ってます。

活動に賛同いただいている方から、

お預かりしている経費でもありますから。

 

 

ただ、持って行った切手の、金額の数字の部分が

偶然、傷ついて剝がれていたことがあって、

「これは交換できません」と言われてしまったことが……。

 

切手は大事に扱わなければ、という教訓を得ました(+_+)

 

 

今、集めている可愛い切手だって、

いつかは手放す時が来るかもしれません。

 

切手買取してくれるサービスもあるようですし、

使わなくても、最終的には「売る」という手段もあります。

でも、やはり切手の保存状態の良し悪しは

査定の際、値段に関わってくるはず。

 

未使用切手、今は使わないからと

管理をおざなりにしてしまうと、

将来もったいないことになってしまうかも。。。

ちょっぴりトラウマな校閲の話。(その3・「校閲ガール」編)

先日、新聞で校閲にまつわる記事を

読んだ話を書きましたが。

 

新聞を読んだのと同じ日、たまたまテレビをつけたら

校閲ガール」のドラマの再放送をやっていて、

ほんのちょっとだけ観ました。

 

 

途中から観たので、ストーリーはよく分かりませんが

主人公が校閲の仕事上で

大きな失敗をしてしまったようです。

 

で、校閲部の方々が、

自分たちも失敗してきてるから

気持ちは分かるよ!と口々に話すシーン。

 

何度も何度も見直したのに、

完成した本を開いた瞬間、

浮かび上がるように誤植が目に飛びこんでくる……

ミスが見つかるのが怖くて、自分の校閲した本は開けない……

などといった役者さんたちのセリフに

思わず「分かるーっ!」と叫びたくなった私です。

 

 

著者の立場であっても。

推敲、著者校と、もう我ながら、

読み返したくもないわって言うくらい

しつこく見直したつもりなのに。

 

発売日間近、完成した本が家に届いて来て、

綺麗に装丁していただいた表紙に感動したりしながら、

中を読み返したら、その途端に見つかる凡ミス。

 

……本が完成した嬉しさが、わりと台無しです。

 

校閲さんだって、あとからミスが見つかると

やはり責任を感じてしまうでしょう。

それがそのまま、全国の書店に流れちゃうんだし。

 

 

だけど。

昔読んだ、ある人気ライトノベルのあとがきで、

作者さんが書かれていたことですが。

 

見つけた誤字脱字を、

編集部に指摘してくる読者もいるけれど、

ミスを完全になくそうとしたら、

出版までの時間も、本の値段も

倍にする必要があるのでは、という内容でした。

 

そんなこと、読者の誰も望んではいませんよね。

 

だから、自分がつまらないミスを犯したという

トラウマから言うわけではないですけど。

書籍を読んで誤字脱字に気づくことがあっても、

読者様には、あまり気にせず流してほしいと思います( ̄∀ ̄;)

 

どうしても文章上のミスを見つけたくなる方は、

いっそご自分が校閲のお仕事を目指してはどうでしょうか。

 

きっと、校閲の方たちだって、

時にはトラウマを残しながら、お仕事をされていると思います……。

ちょっぴりトラウマな校閲の話。(その2・新聞編)

(一昨年ですけど、前回の記事)

 

新聞を読んでいる時、たまに

新聞社の校閲部による記事を発見すると

なるべく目を通すようにしています。

いい勉強になりますので……。

 

先日、8月8日の毎日新聞では、

「準備は万端だ」という文章は

日本語として正しいかどうか、

論じられた記事がありました。

 

日本語の文章としては、

「準備万端整った」か、

あるいは「準備は万全だ」と書くのが

正しいとされているそうです。

 

でも、世間では「準備は万全だ」より

「準備は万端だ」という言葉を使う人の方が

多いとのこと。

 

……うん。私だってフツーに、

「準備は万端だ」って方を書きそうだなぁ。

 

 

まあ、言葉とは移り変わっていくものですから、

誤用の方がだんだんスタンダードになっていけば、

もうそっちが正解でいいじゃん。と、

いい加減な私なんかは思ってしまいます。

 

たとえば独壇場(どくだんじょう)という言葉だって、

独擅場(どくせんじょう)の誤読による慣用だと

辞書には書いてあるけれど。

私だって、たとえ元は誤用だったとしても、

やっぱり独壇場という言葉の方を使うなぁ。

 

……って、独壇場と、独擅場って、

こうして改めて文字を打ってみると、

真剣に間違い探ししなきゃいけないぐらい

微妙な違いなんですけど……。

……いや、こりゃ誤用が定着するのも無理ないわ。

(どの部分が違うか分かりましたか?)

 

 

まぁ、それはさておき。

今の言葉の変化を知るためには、

新聞を読むことも大事だな~と。

コツコツ言葉を学ばなくてはと思った次第です。

 

「日本語の準備は万全」……なんて言葉は、

きっと永遠にあり得ないのですから^^;

スーパーマーズと、天体観測の思い出。

昨日、暗くなってから帰宅していたら、

明るく輝く赤っぽい星を、夜空に見つけて、

「あれはスーパーマーズかな?」と足を止めました。

 

地球に接近して、いつもより大きく見える月を

スーパームーン」というように、

最近では、いつもより大きく見える惑星のことも

「スーパー」をつけて呼ぶようですね。

 

そういえば、火星と地球との距離が今近くなっていて、

7月31日には最接近すると、新聞で読んだことを思い出しました。

(9月上旬まではマイナス2等以上で輝くとか)

 

……逆に言えば、すっかり忘れていたんですけどね^^;

なにしろ中途半端な天文ファンなので……。

たまたま見ることができてラッキーです。

あれが本当に火星だったとしたら、ですけど(笑)

 

 

ふと思い出しましたが。

子どもの頃、家に天体望遠鏡がありました。

買ってもらったのではなくて、

なにかスタンプを集めて、景品としてもらったんです。

 

天体望遠鏡があれば、接近した惑星を観察することもできそうですが。

実際のところ、不器用な自分は、せっかくの望遠鏡を

ほとんど使いこなせてなかったのですよね。

 

星が相手だと、なかなかレンズで見える範囲内に

うまく望遠鏡を向けて、照準を合わせるということが

できなかった覚えがあります。

さすがに対象が月だと、観察しやすかったですが。

(単に、星に比べてデカいという理由で……)

 

土星の輪っかとか、見てみたかったのになぁ。

 

 

あ、でも、土星の輪なら、

のちに市内の天文同好会のイベントで

大きな望遠鏡で覗かせてもらったことがありました。

プラネタリウムのある、勤労青少年会館で。

 

ずいぶん前のことなので、よく覚えていないですが、

小さくて、白っぽいシルエットで見えたので、

惑星に耳がついている感じだったような。

それでも、レンズ越しに、

本物の土星の輪を見ているのだと思うと、感慨がありました。

 

 

中途半端な天文ファンとしては、

やっぱり自力で天体観測までは難しいので、

いつかまた、そうしたイベントにも

参加してみたいですね( ̄∀ ̄;)

筒井康隆「創作の極意と掟」を読みました。

前回、筒井康隆さんの小説を読んだ話を書きましたが、

その筒井さんが小説作法について著したのが

「創作の極意と掟」という本です。

 

序言の一行目には

「作家としての遺言」と書かれていました。

 

もちろん小説の書き方にまつわる本ですが、

基本的な小説創作のハウツーが書かれているわけではありません。

まぁ、そんな本なら、筒井さんが書いてくれるわけはないな。

 

……感想を一言で言うと、

さすが巨匠だと頭を垂れるしかないような、そんな気がしました。

 

どこでそう感じたかと言えば、

「直接本を読んで下さい」としか言えませんけど。

まさに「極意」ですし、ここで例を挙げることは憚られます。

 

ただ、読みはじめから、目からウロコがボロボロ落ちましたし、

自分が小説創作者として、

まだまだ、ほんの入り口に立っているにすぎないのだと

思い知らされたことは確かです。

 

 

小説の書き出しのことを「濫觴(らんしょう)」と言うことすら

自分は知らなかったしな……。

(今、辞書を引いてみると、濫觴の本来の意味は、

物事の始まりという意味であるようですが)

 

 

また、小説という表現方法を選んだことの喜びも

この本にはぎゅっと込められているようで。

 

……どんなに端くれで、末端であろうとも、

私も小説を書く者として。

己の未熟さをかみしめつつも、書く喜びを忘れないで、

自分なりに、もっと書きたいものを深く追求して良いのだと、

そう背中を押してもらったような気が(勝手に)しています。

 

 

現実は、今もなかなか仕事は難航中なのですけど。

でも、書きたいこと、まだ諦めないぞっ。

 

 

ところで、筒井康隆さんは、

ライトノベルを1冊だけ書かれているようですが、

それは「涼宮ハルヒ」シリーズから影響を受けてのことだったのだと

この本を読んではじめて知りました。

 

筒井さんって、なんでも書かれてますよね……。

そういえば童話の本も昔読みました。グロかったけど。

 

……うん。グロいグロいと言いながら、

実はけっこう筒井さんのSF読んでいます、私。

やっぱり、これまで読んだことのない小説を読みたいからこそ。

面白さには勝てないのでしょうね。

筒井康隆「霊長類南へ」を読みました。

日本のSF作家と言えば、

やはり星新一さん、筒井康隆さん、小松左京さんが

御三家ですよね。

 

私自身は、星新一さんや小松左京さんの小説に

ハマった時期はそれぞれあったのですが、

筒井康隆さんの小説に対しては、個人的に苦手意識がありました。

子どもの頃、かなりグロテスクな作品を読んだのが

ちょっとトラウマ気味になっていたせいかもしれません。

 

……が、筒井さんの小説のファンである知人の意見を聞いて、

少しその意識をあらためました。

 

知人いわく、「ほかの作家は、何冊か読むと、

その人の傾向が見えて、だんだん飽きてくるが、

筒井康隆に関しては、傾向というものが見えないほど

作風が幅広い」……と。

また、とてもIQの高い方で、「あの人は天才」だと。

 

……確かに、型破りな作品を書き続けるなんて

普通の作家にできるような芸当ではないのは

じゅうぶん分かっているつもりです。

 

 

そこで知人に借りて読んだのが、

「霊長類南へ」という小説でした。

これはわりと普通のSFだから……とすすめられまして。

およそ50年前に出版された本のようです。

 

「霊長類南へ」のあらすじを簡単に述べると、

核戦争が起こり、滅んでいく人類の話です。

 

グロい場面は今でもやっぱり、

読むのに苦痛を感じましたが^^;

あまり想像しないようにして読めばいいんですけどね……。

だけど本当に核戦争が勃発したら、

「残酷なのは嫌」ではすまされません。

 

 

現実の世界で、「まだ未来があり、先の希望がある」ということが、

どれほど有難いものなのか。

この小説を読むことで、思い知らされたような気がしました。

それほど、リアリティのある緊迫感や、絶望感をおぼえたのです。

 

人類に未来がなければ、

過ちの教訓を次の世代に残すことすらできない。

そのことを教えられた小説でした。

 

ほかの人との「間」……関係性があってこその人間だから。

受けとめてくれる人々がいなければ、

人は、己の仕事をする意味さえ持つことができないのですね。

山口市中心商店街のストリートピアノのお話。

私用のため、月に1回ほど山口市に通っています。

用事が終わった後、余った時間で、

山口駅近くの商店街をウロウロするのが常なのですが。

 

ある時、中市コミュニティーホールNacという建物で、

「ストリートピアノ」という貼り紙を見つけました。

ご自由にお弾きくださいと書いてあります。

 

……思わず、吸い寄せられました。

 

開けてみると、電子ピアノのようです。

まぁ、さすがに本物のピアノは外に置けないよね……。

 

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昔、ずっとピアノを習ってたんです。

子どもの時は練習嫌いでしたが、

今となれば、毎日弾いていた頃が懐かしいです。

 

だから、ついピアノが置いてあると吸い寄せられる習性が……。

 

ピアノの展示即売会とか、

電器屋さんに置いてある電子ピアノも

見かけると、つい鍵盤を触ってしまうという。

電子ピアノに慣れたので、たまに本物のピアノを触ると、

音の大きさにビビったりしますが(笑)

 

 

ピアノという楽器の、デメリットの1つは

持ち運びできないことじゃないでしょうか。

 

だから、こうやって出かけた先の場所に

気軽に弾いても良いピアノが置いてあることは、

なんだか嬉しくて、ありがたいことだと思いました。

交流のために利用する人もいるでしょう、きっと。

 

……でもね。

私は、たまにしか鍵盤に触らないから、

指があまり動かないのですよね……。

 

昔はそこそこ弾けていたはずですが、

お気に入りの曲もたまに弾くと、

最後まで思い出せないという。

 

長時間、下手なピアノを弾いていたら

周囲の迷惑になるような気がして、退散しました^^;

 

家にある電子ピアノで、もうちょっとは練習してから弾こう!

 

……と思ったのですが、なかなか家でもピアノを触ることなく、

(いつでも弾ける自分のピアノは触らないのは何故……?)

それ以降、Nacの前を通る機会があっても、

ストリートピアノには近寄らず、素通りしています。

 

うん。練習嫌いは大人になった今も

変わっていませんでした(°д°)

「万引き家族」を、観てきました。

当初、地元の映画館では上映予告が出ていなかったので。

観られないのかなぁと思っていたら、

「緊急上映」してくれて助かりました。

そんなに何度も、市外の映画館まで行けないんだい^^;

 

 

でも、この映画の感想を書くのは

控えようかなとも迷ったのです。

 

「家族とは何か」問う映画だとは、

充分すぎるほど伝わって来たものの、

私などが、どんな感想を書いても、

うすっぺらい言葉にしかならないような気がして……。

 

 

彼らは確かに「犯罪」でつながった家族だったけれど。

前半の、家族の描写が本当に温かくて。

リリー・フランキー演じるお父さんが

「俺たち、普通じゃない」って言ってて、

確かにそうなんだけど。

それでもなお、「良い家族だなぁ」と思わざるを得なくて。

 

いつまでも、いつまでも

この家族の日常を観ていたいと思ってしまいました。

春も夏も秋も冬も、年末年始も

いつまでも、終わることなく。

 

破綻しないで、続いてほしかった。

 

私は涙もろいので、映画を観るとすぐに泣くのですが、

家族が引き裂かれていく後半、涙は出るものの、

それがどうして出てくる涙なのか、

よく分からなかったのです。

 

もちろん、やるせなさとか、理不尽さとか

別れの哀しみとか、そういうこともあったけれど。

もっと身体の奥の方から涙が出てくる感じで、

もっと説明できない感情であるようでした。

 

作中のワイドショーも警察もそうだけど、

社会はつまらないことしか言わないね。

きっと私だって、つまらないことしか言えない。

 

映画を観終わって席を立った時、

胸の内側に、ずっしりと重いものを

受け取ったように感じました。

 

それでも、少年には未来があるべきだし、

それでも、彼らは裁かれなくてはならなかったのだから。

 

 

……子どもたち2人が、将来大人になってから、

かつて引き裂かれた「家族」のことを思い出した時、

一体、どう振り返るのだろう。

最後に、それを気がかりに思いました。